明治大学体育会競走部公式ウェブサイト
競走部紹介
競走部紹介
競走部の歴史
長く過酷な低迷期 昭和42年(1967年)~昭和61年(1986年)
昭和42年 (1967年) |
第43回箱根駅伝15位(最下位)
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昭和43年 (1968年) |
東京6大学対校戦始まる。 関東インカレ1部復帰。
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大学生活時は、学生運動が非常に盛んな時期で、我々体育会の学生は、大学側に立ち、学校を守るために全学連と対峙し石や火炎瓶等を投げられ、非常に怖い状況にあり、又死ぬかと思ったこともありました。苦しくも楽しい学生・陸上競技生活ができたのは、ライバルでありながらも仲の良かった 同期、厳しくも優しかった先輩、私たちについてきてくれた後輩・・・・・ 心より皆様に感謝します。 末廣敬二郎(昭和44年卒業) |
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昭和43年度卒業
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昭和44年 (1969年) |
第45回箱根駅伝1年ぶりの出場するも15位。 メンバー不足のため、箱根駅伝予選会を辞退。
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昭和45年 (1970年) |
関東インカレ、競歩の健闘により1部を死守。 箱根駅伝予選会通過できず。
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昭和46年 (1971年) |
関東インカレ2部降格。 箱根駅伝予選会突破。3年ぶりの出場。
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昭和47年 (1972年) |
第48回箱根駅伝15位。
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昭和49年 (1974年) |
記念第50回箱根駅伝大会に出場。過去の優勝校のルールが適用された。結果は20校中17位に終った。
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襷を繋ぐ 50回大会は記念大会として過去の優勝校は予選会を経ずに出場が認められた。当時予選会の競走部もこの特別ルールにより、早い時期に本大会出場が決まっていた。 1年浪人し一般入試の私は少ない長距離部門の中で10人目を争う2年生として出場決定以降、日々最後の出場枠を目指して必死の思いで練習に明け暮れていた。幸いにも10人目の枠に滑り込み大会2日目、8区を走ることとなった。結果は大ブレーキ、先輩たちが繋いだ汗のしみこんだ襷を9区に繋ぐことが出来ず大きな悔いが残る大会となった。 山岸達也(昭和51年卒業) |
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昭和50年 (1975年) |
部員不足という深刻な問題をかかえここ10年近くたっているが、今年も長距離6人、あとの4人は中、短距離の選手で予選会にギリギリの10人で出場した。結果は9位。むろん出場権は得られなかった。
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川上基金の創設 昭和50年に病没された故川上正蔵氏(大正14年卒)のご遺族から、故人の遺志として金10万円が紫交会に寄付されたのがきっかけである。その後多くの先輩方から寄付が寄せられ、今日まで現役選手の強化、合宿所の建設費用の一部として活用をされてきた。 昨今はこの基金の使命も果たし終え平成17年度を持って廃止とした。競走部発展の礎となったことは間違いないだろう。 |
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昭和51年 (1976年) |
箱根駅伝予選会に、長距離選手8名、残りは中距離選手で臨んだが、通過できず。
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昭和52年 (1977年) |
箱根駅伝予選会落ち。
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青春を謳歌した八幡山のグラウンド。“M”のマークの復活を何とか成し遂げようと部員全員が早朝練習、本練習、夜間練習と闇雲に励んだ4年間・・・・ 。しかし、関東インカレ1部昇格、箱根駅伝出場を果たすことができなかった。この2大会を1度も経験をせずに卒業せずに卒業していくのは我々が始めてであったと思う。 入部当初の部員数は16名、東京6大学の中でも最小であった。ただ、伝統だけに支えられていた状況下に現役は夜を徹して競走部復活の手段を論じ合った。 伊藤和生(昭和53年卒業) |
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昭和53年 (1978年) |
関東インカレ1部昇格。 箱根駅伝予選落ち。
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記者の目 今年も11月20日に行われた予選会は落選。6年前の招待出場以来、本大会から姿を消しているだけに寂しい限りだ。かつて選手として活躍した、堀越好夫監督も「選手がコマ不足だけに、今ひとつ及ばない」と表情も暗い。 駅伝から遠ざかっている原因は、入学難もさることながら「インカレ重視」へ補強の方針が変わったことも挙げられる。本学は短距離、フィールド種目も伝統がある。それにもかかわらず、ここ数年関東学生陸上では2部に落ちていた。そこで名門復活の足がかりにまず、1部復帰と補強のほこ先を変えたのである。それが、功を奏して今年は見事に一部復帰を果たした。 明大スポーツより |
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関東インカレ2部優勝
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昭和54年 (1979年) |
箱根駅伝予選落ち。
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昭和55年 (1980年) |
箱根駅伝予選落ち。
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昭和56年 (1981年) |
箱根駅伝予選落ち。
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昭和57年 (1982年) |
箱根駅伝予選落ち。
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私が在籍した4年間は中長距離ブロック合わせても、箱根駅伝出場に必要な人数を満たすことはありませんでした。箱根は夢のまた夢・・・・・・・人数が揃わなければ目標とすることさえできない環境だったのですが、競歩、400m、三段跳、投てきの選手にまでスタートラインに立ってもらい、何とか予選会には出場させてもらうことができたのです。 専門の違うブロックの選手は当然途中棄権しているものと思っていましたが、ゴールした後、気が付くと、全員が20キロを完走しているではありませんか。信じられない!と同時に皆の熱い気持ちと気力に驚かされ、感動をしました。 田村義夫(昭和58年卒業) |
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昭和58年 (1983年) |
第67回全日本競歩。20キロで園原健弘が日本新で優勝。 箱根駅伝予選会9位。60回大会を記念して20校の参加枠となり出場権を得る。
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昭和59年 (1984年) |
箱根駅伝60回大会18位。この大会は早稲田が30年ぶり10度目の優勝をしファンを沸かせた。また、東大も予選を通過し本大会に参加し17位となり話題を呼んだ。 箱根駅伝予選会5位で本大会の出場権を得た。
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入学式前の3月中に、浅草橋~千葉駅まで藤崎先輩に呼ばれて歩いたり、インカレ2週間前のGWにいきなり遠藤コーチと藤崎先輩が現れ「今日は3万mやぞ!」と言われ、八幡山の300mのトラックを100周回ったり。入学早々私の中にあった常識や限界がいきなり破壊された思いでした。 そんな手荒い洗礼を受け、自分の中の限界ラインがぐっと引きあがり「限界ラインはた易く突破することが出来るのだ」ということを早い段階で教えていただいたことがオリンピックまで出場できるようになってのだと思います。 バルセロナオリンピック50キロ競歩代表 園原健弘 (昭和60年卒業) |
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昭和60年 (1985年) |
箱根駅伝61回大会15位。
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昭和61年 (1986年) |
箱根駅伝62回大会15位。2年連続の最下位に終わった。 第19回東京6大学対校戦で初優勝。
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当時を振り返って 幸運にも大学1年の時、箱根駅伝60周年記念大会で出場枠が20校に広がり、予選会通過。本大会出場を果たした。同期の由良育英の井上晋一君、飯能の細貝雅一君らと雨の予選会を走った記憶は今でも鮮明だ。 面白いもので、こうなると順回転に転がっていく、2年目には飯能の牧野典彰君が入学。結局在学中の4年間記念大会の恩恵が無くても、連続出場できることになる。 また、我々が4年の時には第19回東京6大学対校戦で初優勝を遂げた。長距離・短距離・投擲・跳躍とバランスがとれていたし、各ブロック間の相互理解や、競走部全体の雰囲気も良かったことのご褒美であったのだろう。 川崎幹男(昭和62年卒業) |
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昭和60年1月1日
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