明治大学体育会競走部公式ウェブサイト
競走部紹介
競走部紹介
競走部の歴史
激変の時代 昭和2年(1927年)~昭和21年(1946年)
昭和2年 (1927年) |
第8回箱根駅伝3位。 第8回極東選手権。谷三三五、北角昌利、田中義雄、竹内兵蔵、古山一郎、松重秀男の6選手が出場。 第14回日本選手権100m・竹内兵蔵、400m・松重秀男(OB)、円盤投・古山一郎、ハンマー投・長尾雄治が優勝。
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昭和3年 (1928年) |
第9回箱根駅伝に優勝。 通算4度目の栄冠に輝いた。メンバーは古沢英一、千葉毅、村野正雄、權泰夏、八島健三、永瀬芳雄、山本巌雄、光田博、笠井重雄、北角昌利。 第15回日本選手権。400m松重秀男(OB)、5000m・10000m永谷寿一(OB)、円盤投・古山一郎が優勝。 第9回オリンピックアムステルダム大会。永谷寿一(OB)が10000mとマラソン、古山一郎が円盤投に出場。
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左 權泰夏、右 永谷寿一(昭和3年)
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昭和4年 (1929年) |
第10回箱根駅伝優勝。8区で早稲田を下し、連勝を飾り通算5度目の優勝を遂げた。メンバーは古沢英一、笠井重雄、光田博、小島道雄、山本巌雄、永瀬芳雄、浜田耕作、北角昌利、村上讃、權泰夏。 第16回日本選手権。5000m競歩増田輝夫が優勝。
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最多優勝5回目。喜びに湧く応援団。(昭和4年)
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昭和5年 (1930年) |
和泉グランド完成(1周300m)。 第11回箱根駅伝2位。史上初の3連覇はならず。 第17回日本選手権で、ハンマー投・長尾雄治、棒高跳・金盛総多が優勝。
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昭和6年 (1931年) |
第12回箱根駅伝5位。 第18回日本選手権で、400mハードル・陸口正一、ハンマー投・長尾雄治が優勝。
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400mハードルで日本新記録を出した陸口正一(昭和6年)
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昭和7年 (1932年) |
第13回箱根駅伝。4区の大ブレーキで大会参加以来初の最下位。 第10回ロスアンゼルスオリンピックに權泰夏(OB)がマラソン(7位)、ハンマー投に落合正義(10位)、長尾雄治(12位)が出場。 第19回日本選手権において、マラソンで權泰夏、400mリレーで明大チーム、ハンマー投で落合正義(日本新)が優勝。
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明大のハンマートリオ 昭和7年のオリンピックロスアンゼルス大会に、明大は2人のハンマー選手を送った。(長尾雄治、落合正義) 当時ハンマートリオとして数えられた私にとって今も忘れ得ない大きな誇りである。日本記録を更新しあったこの3人。しかしフォームは各々異なっていた。3人とも教えようとも教わろうともせず、黙々と競いあった。 古山一郎(昭和8年卒業) |
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左 長尾雄治 右 落合正義(昭和7年)
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昭和8年 (1933年) |
第14回箱根駅伝4位。 第20回日本選手権において、400mハードルで陸口正一、3000m障害で内田賢が優勝。
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昭和9年 (1934年) |
第15回箱根駅伝6位。 第10回極東選手権において、朝隈善郎、名島忠雄、吉住猛、富江利直、陸口正一が出場。 第21回日本選手権において、走高跳で朝隈善郎、5種競技で吉住猛が優勝。
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昭和10年 (1935年) |
第16回箱根駅伝5位。 第22回日本選手権において、走高跳で朝隈善郎、5種競技で吉住猛、マラソンで孫基禎(明大入学前)が日本新で優勝。
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昭和11年 (1936年) |
第17回箱根駅伝8位。この低迷に多くの明治ファンを嘆かせた。 第11回オリンピックベルリン大会に、富江利直(OB)が800m・1500m、南昇竜と孫基禎(明大入学前)がマラソン、朝隈善郎が走高跳に出場。孫基禎が見事に金メダル、南昇竜が銅メダルに輝いた。また、朝隈善郎も6位に入賞した。
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ベルリン大会の思い出 初日の走高跳に出場した私はヘルシンキ合宿後、ベルリンに向 かう船中で、不運にも急性蓄膿症に見舞われすっかり調子を乱し、日の丸を揚げる夢は無残にも敗れ去ってしまった。合宿中好調であっただけに今でも悔やまれてならない。(中略) 最終日のマラソンは、前回の優勝者ザバラ(アルゼンチン)を含め56人の選手が参加した。トップの選手の帰着を告げるトランペットの音が高々と鳴り響くや、さっと開かれた門から走者が颯爽と勇姿を現した。太い斜めの線に日の丸が見える。孫選手だ!万歳!スタンドの片隅で私は思わず飛び上がった。満場総立ちの声援に渾身の力を振り絞り最後の力走でこれにこたえた。そして南選手も3位入賞。 思えば金栗、三島の両先輩が初参加した第5回のストックホルム大会以来、待ち続けた悲願は、ここに見事に実を結んだのである。 朝隈善郎(昭和12年卒業) |
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朝隈善郎 関東インカレ2連勝、翌年も優勝(昭和11年)
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昭和13年 (1938年) |
第19回箱根駅伝。2位に入ったが、6区に起用された選手が日本放送協会との二重登録問題を問われ関東学生陸上競技連盟からチームの一年間の出場停止処分を受けた。当時本学は黄金時代を誇り、中長距離陣、フィールド陣に精鋭を誇り、関東インカレでも、早稲田、文理に次ぎ3位になるなど、その実力を発揮“陸上明治”が盛り上がってきた矢先の出来事であっただけに、この失格、出場停止処分は大きな痛手となり、それ以降の強化に打撃を与えた。 第25回日本選手権において、800m・大森伊三治、1500m・宮城礼次、走高跳・原学が優勝。
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昭和14年 (1939年) |
第20回箱根駅伝は前大会の失格により(二重登録として、学連規約に抵触)ペナルティーを科せられ不出場となった。その余波で21回、22回大会も不参加のまま、ついに戦争のため大会は中止になってしまった。
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戦争前の3ヵ年 昭和14年の春、私は世田谷区北沢5の797、明大競走部合宿所(加藤ぎん)の門を叩いた。日華事変が長期化し、国民徴兵令がしかれ、戦時体制に移りつつあったが文化、スポーツ界にはまだリベラリズムが残っていた頃である。(中略) 昭和16年統制軍需経済の進展に伴い衣食料は配給制となり、ついに合宿所は解散した。国策遂行のもと、各運動部は記録より、心身鍛錬期間としての色彩を強めていた。陸連の指導により新たに手榴弾距離投、重量運搬継走、軍装巾跳などの実践向け競技種目が加えられた。そして、12月に太平洋戦争に突入し、昭和17年の卒業予定者は直ちに繰り上げ卒業をさせられ、スパイクを軍靴に履き替え、陸海軍に入隊した。さらに、戦争終結まで多くの部員も続いて戦場に向かい、戦死を遂げた者とそ のまま消息を絶った者が多い。 このため、いわゆる戦中派部員には不運というべき断層とともに競技部史に断絶したことを余儀なくされている。 岩原寛一(昭和17年卒業) |
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昭和17年3月卒業記念
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昭和16年 (1941年) |
第1回明治対法政対校戦(八幡山) が開催された。
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武装行軍競走(昭和18年)
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昭和20年 (1945年) |
昭和20年8月太平洋戦争が終った。
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昭和21年 (1946年) |
第1回国民体育大会兼日本選手権において、5000mで岡正康、走高跳で原学(OB)が優勝。32歳の往年のオリンピック選手朝隈善郎(OB)が十種競技に挑戦、2位となった。 この年に入ると各地で一斉に競技会が復活したが、食糧難や競技場不足から記録も低調で大正時代に戻ったといってよかった。
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